2011年3月11日、数えきれない程の楽器や校舎が東日本大震災によって流され、傷つき、その傷はひどいものでした。学校の先生達は行方不明になり、引っ越しを余儀なくされ、学校は音楽活動の中断を強いられました。学校や家族は失われた多くの代わりの楽器を見つける事ができません。

LIBERTY MUSIC PROGRAMという子供達への音楽プログラムは、コミュニティーアーツ東京がミッション・トゥ・ザ・ワールド、グレースミッション東北、佃LOVES東北、braveaction、日本長老伝道会との協力により、この回復の時期に音楽を通して子供達に癒しと慰めを提供するために努力しています。

友達や家族の誰かを失い、持ち物全てを失った方々の必要に比べれば取るに足りないかもしれません。しかし、私たちが望んでいるのはレッスンやリハーサルそしてイベントを通して、生涯続く音楽経験を子供達に提供することです。

この子供達へのプログラムは宮城県とその周辺地域において既に成されてきた、支援と修復の繋がりとその努力の上に成り立っています。

正式には2013年4月から始まり、2013年6月に集大成として三日間の音楽フェスティバルを開催します。このプロジェクトはまだ資金が必要です、もし援助いただけるならinfo@communityarts.jpまで是非ご連絡ください。

2011年3月11日マグニチュード9.0の地震が東北の69kmの沿岸を震わせ、今まで日本が見たこともない程の津波を引き起こしました。それは40mの高さと9.6km先まで内陸に打ち寄せました。日本の本州は約243cm東へ動き、地球の軸さえも25cm移動させました。

およそ、20,000人が亡くなり、400,000の建物が破壊され、何十万もの人々が住む家を失い、何百万もの人々が電気や、電話や、水の供給を失いました。多数の町全体が海に流され、ダムは崩壊しました。

千葉にある、石油精製所は爆発し30.5mの炎が何日も燃え続け空を煙で覆いました。世界銀行は総被害額を約2,350億ドルと見積もり、これは人類の歴史上もっとも経済的負担の高い自然災害となります。全てのアメリカ人にとって9月11日がそうであるように、地震のあった3月11日という日は日本人の心にいつまでも張り付いていることでしょう。

福島原子力発電所では地震から連鎖的に火事がおこり4つの原子炉の爆発をテレビの生中継で世界中が目撃しました。地震の際、電気は止まり、緊急のディーゼル発電機が起動し電気機器と冷却機を動かしました。しかし、50分後に15mの津波が防波堤を越えタービン建屋に浸水し発電機と予備のバッテリーに損害を与え機能を止めてしまいました。さらに道路の状態不良と浸水したタービン室が電気の回復を一週間以上止めてしまいました。

電気がない状態では加熱した原子炉は冷やせません。燃料棒はむき出しになり、加熱し、建物を水素ガスで満たしました。3月12日に原子炉の1号機で爆発があり、3月14日には発がん性の特に高い危険なプルトニウムが入っている3号機で爆発がありました。3月15日には原子炉の2号機と4号機でも爆発がありました。原子炉1,2,3,4号機の芯は溶けて地面に落ちて格納容器を燃やし貫きました。そして、高放射能物質が環境へ放出されてしまいました。

一ヶ月後、放射能の危険レベルはレベル7まで上昇し、環境への重大事故がおこり広範囲に影響を及ぼす事を示しました。このレベルは今まで付けられた評価のなかでは一番高いものでチェルノブイリの災害と同じレベルです。野菜や、お肉や、乳製品、水道水、海と環境の全てに影響を及ぼしました。

東日本大震災の3日後からコミュニティーアーツ東京のスタッフは芸術を通して災害救援と復興活動に着手しました。極限まで食べ物や水や衣服などの身体的必要がある時でさえ、音楽と芸術は身体的にも精神的にも痛ましい中に慰めと癒しをもたらしました。数ヶ月が経ち物資の必要性がなくなった後も、避難所へアートのイベントを通して人との結びつきを続けています。

地震から一年以上が経ちますが、アートイベントは被災地の復旧において継続して役割があります。私たちは今まで50以上のイベントでの演奏を福島県、宮城県、岩手県の被災地にて行ってきました。被災地に住み被災地の方と共に働く中で私たちは持続して最も助けになるものは何か、そして最も必要なものは何かと質問を問い続けています。復興は何年もかかるなか、アートはこの再建への道のりにおいて継続した役割があるのです。